フランツ・カフカに恋をする(幸村&元親) 半仙戯 夜風に揺れる 宴かな(政宗)

「フランツ・カフカに恋をする」


「ある日、長く気がかりな夢から目が覚めたらお前は虫になっていたんだ」

 幸村は不思議そうに首をかしげた。元親は楽しそうに笑うと幸村の頭を撫でた。

「やめてくだされ」

 表面では嫌がっているが瞳は笑っている。

 今、二人は太平洋を望む海岸で釣りをしている。幸村が同盟国である元親の国に遊びに来た、いや、使者として赴いたのだ。

「元親殿は面白いものを読まれるな」
「そうか?」

 幸村ならそんな自分が虫になるような本は読まない。

「一体どんな虫になられたのですか?」
「でっけェ芋虫だ」
「なんと」

 アタリにさっと竿を引いた元親は、釣り糸の先から目を離さずに言葉を続けた。

「お前なら、その時どうする?」

 小さな魚が針の先にぶらさがっていた。桶にその魚を放り込む。すでに中では二匹泳いでおり、水を割って入ってきた新参者に少しだけ驚いて、すぐに三匹でぐるぐると桶の中をまわり始めた。

 幸村なら、どうするか。それは非常に興味深いことだ。まず、いきなり芋虫になる状況は絶対にあり得ない。なのに、自分は芋虫になっている。

「とりあえず、山へ行きます」
「ん?山?」
「はい。そのような姿ではお館様も佐助も驚きましょうし、某が虫になったことによって家中に動揺を招いてはなりませぬゆえ」
「突然黙って消えるのか」
「ええ。しばらくは悲しんで探してくれる人もいましょうが、芋虫になったらわかりませぬ。やがて、みな諦めて某を忘れるでしょう」

 そうか、と呟いた元親は再び幸村の頭を撫でた。幸村に向けた微笑は普段の彼からは想像もつかないほど苦しげなものだった。

 哀しい、ともつらい、とも違う。四国の鬼と称された男には不釣合いな感情。

「俺はきっと、最後まで主人公と同じ行動を取るだろうよ」

 部屋から出ず、ずうっと、ずうっと居る。

「いや、きっと、本当に動かなくなるかもしれねえな」

 幸村は手を伸ばして元親の手を握る。くく、と笑った元親は、竿の先に視線を戻した。その唇が描く感情はすでにもう平常に戻っている。

 ちゃぷん、桶の魚が跳ねた。

 幸村も竿を睨んだ。それは非常に難しいことだと幸村には映る。幾ら芋虫になったとて、一箇所から絶対に動かないことなど出来ないはずだ。

「幸村は強いな」

 独り言のような声だった。だから幸村も返事はしなかった。

「俺は怖い。一寸先、どうなるか解らないこの世界が怖い。それに対応できるかどうか解らない自分が怖い。何より」

 一旦言葉を切ると元親は嘲るような声で笑った。

「何よりな。俺は自分の中身が芋虫じゃないかと見破られるのが怖いんだよ」

 竿の先とその更に先にある水平線を見据えたままだ。瞳は平然と落ち着いている、その気配も。

 幸村は、自分は自分を偽っているのだろうかと考え込む。そしてまた、何かを怖れているか考え込む。誰かを偽ったこともないし、怖れることはほとんどない。恒に何かを怖れていることはなかった。

 元親はこれ以上ないほど落ち着いているのだ。それはきっとその恐怖に慣れてしまったからこそ、それとも元々恐怖などないのだろうか?ただその静かな言葉には嘘は見られなかった。

「演じているのがバレた日には、どれだけ嘲られんのか。それを考えただけで寒気がするんだよ」

 ようやく幸村は元親が何を言わんとしているかを悟った。世界を相手に演じているのだ、彼は。「長曽我部元親」と呼ばれる男を、演じている。

「……重い」
「ああ、重い。肩が潰れそうだ」

 幸村には別人を一人背負い込もうなど、考えもつかない。考え付かない環境に居た自分は恵まれすぎていたのだろう。

「ならば、某の前では本当の元親殿で居てくだされ」
「ん……」

 元親は薄く微笑んだ。潮風がゆるりと二人を撫ぜる。華やかな刺繍が施された華美な着物がふわりと舞う。

 紅い鉢巻の行方を目で追うと、元親は竿を引き上げて立った。

「そろそろ行くか」
「はい!」

 幸村はその後ろを眺めて、初めて元親を見たような気持ちになっていた。






「半仙戯 夜風に揺れる 宴かな」


 ふと顔を上げると、濃い色をした桜が咲いていた。女が差すかんざしの飾りに似た八重の花が、夜に彩を添えている。仄明るい月光に照らされた桜は、生きている様だ。
 一瞬の花の美しさ、それはそのまま人間の生き方に繋がるのではないだろうか。一度咲いたのならば、存分にその美しさを誇って生きていく、政宗は常々そう考えていた。生きている事は何よりも強く美しい。

 例えば、何年も先のこと。政宗が死んだ後のことは一体どうなるのだろうと考えても、それは無駄ではないのだろうか。政宗が何か力を及ぼせることは僅かだ。天下を取り、政宗なりに良いと考えた体制を敷いても、次の瞬間には崩れ去っているかも知れない。浮世とは何よりも果敢ない、そう桜のように。
 誰かがこの城を懐かしみ、切ない思いに囚われる事もあるだろう。それとは反対に、この城が存在し続ければ誰かがこの城を憎むだろう。今、小さな木である植えたばかりの松がこの城の高さを超える日が来た時、まだ誰かがこの城で桜を見ることがあるのだろうか。

 最良を願ったとしてもそれは叶えられることはない。人が変わらねば世界は変わらない。戦はこの先永遠になくならないだろうと、政宗は解っている。

 解っているからこそ、足掻かずにはいられないのだ。本当に人の本質はそれだけなのだろうか、それを否定したい。自らが歩いてきた人生は闘争の足跡だ。

 月日が巡り、この桜に手を伸べる人がまだいたのなら。この通り過ぎる美しさを愛でられる人が一人でもいたのならば、それでいい。闘争の合間に鶯の声を聞き、春を喜ぶ心が残ることこそ、人の本質を否定できることだと政宗は考えていたからだ。それを見守るのは政宗ではなく、静かに降る月光の仕事なのかもしれない。




続きがありますが、いつになるやら。