「優曇華」


 不機嫌である。まったく不機嫌である。完全なまでに不機嫌である。

 最上屋では基本的に主人が不機嫌だ。不機嫌な訳ではない時まで、不機嫌そうである。元々はお祭り好きで賑々しい人間だったのだが、主人になったとたんに大人しくなった。足枷、を一つはめられたかのように。
 いや、今不機嫌なのは主人ではないのだ。それは普段一切不機嫌にはならないであろう人間が、不機嫌なのだ。
 彼はわがままを言ったり、凹んだりすることはあれど大体は朗らかに笑って終わらせていた。それがどうだろうか。

 ついこの間まで自分の部屋として与えられていた部屋で篭城を決め込んでいる。
 遊女達はどちらかと言えば彼の味方で、主人の事を邪険にする。それはまあ、理解できる。しかし理解することと納得することは別で、政宗は正直全く納得できていなかったのである。

「まー、大将が悪いんじゃない?」
「……煩ェ」

 政宗だって原因が自分にあるのは解っている。だから、なお一層納得がいかない。納得がいかない、というよりは認めたくないのだ。
 目にも鮮やかな深緋(こきひ)の腰巻を羽織った遊女が、他の遊女に連れられて風呂に向かっている。それを横目で眺めて、政宗は立ち上がり自室へ向かった。

「どこ行くんですー?」
「寝直す。どうせ昼見世は登楼るヤツもいねェしよ」

 仕事は速い方なので幸村がいないのだったら、やることはない。そう背中が言っているのを見て、佐助は苦笑した。深緋の遊女に向かい声をかける。

「旦那、こそこそ行かないでもいいでしょうに」
「「!!!!」」
「あら、佐助さん、なんでバラしちゃうのでありんすか」
「たまには馬に蹴られるのもいいかもなー、なんてね」

 恐る恐る佐助のほうを振り向いた遊女の顔は、明らかに幸村だ。今現在篭城中の、政宗の恋人である。
 政宗のほうを決して見ない強情さがなんとも面白い。対して、政宗は幸村を凝視している。やはり遊郭中の人間は、幸村に味方しているらしい。

「…………どこ、行くんだ?」
「……政宗殿には関係ないで御座る」

 その場にいた二人以外の人間は、揃ってため息を吐いた。どこに行く、と言っても幸村が向かっている方向には風呂しかない。間の抜けた質問だ。それに対する回答も、間が抜けている。
 痴話喧嘩は昔から無意味と決まっているが、この二人は輪をかけて無意味なことをしているようにしか見えなかった。

「……内湯はもう掃除中だ。行くンだったら、銭湯に行け」

 そう言って、政宗は幸村に紙で包まれた銭を投げた。幸村も反射で受け取る。
 しばらく手の中の紙の包みを見た後、本当に自室へ向かい始めた政宗の背中に目を向けた。一瞬逡巡するも、それは一瞬のこと。

「、政宗殿!」
「!」
「よ、宜しければ一緒に参りませぬか?」

 宜しくないはずがない。

「…………待っててやるから、着替えて来い」
「……はい」

 それでも、こんな無愛想な返事しか出来ない。不器用すぎる自分に腹が立ち、政宗はにやにや笑っている佐助を思いっきり睨みつけた。

「おお、おっかねー。大将、怒りっぽいんだから」
「笑うな!」
「ごめんごめん。いやあ、春だねー」

 もう一度睨みつけると、佐助は更に笑みを深くして留守は任せてくださいねー、と言った。





「……………………」
「……………………」

 気まずい。

 それほど広くもない道の端と端に分かれて二人は島の湯に向かっていた。ちらちらとお互いの行動を気にしつつ、決して目をあわさない。
 幸村は息を吐いた。別に政宗が嫌いなわけではないし、むしろ好きで、ただ彼の不甲斐無さになんとなく腹が立っているだけで。本当は今すぐその手を取りたいけれど、意地を張り合ってきたお互いとしては、そう簡単には折れられない。

 不機嫌だ、と言われれば幸村はこの上なく不機嫌だった。それは不甲斐無い恋人のせいでもあったし、その程度のことが許せない自分のせいでもある。

 むしろ、それほど大事に想われている、という証でもあるのかもしれない。佐助なんかはいつもそういって幸村を宥めていた。
 確かに、そう言われればそうだ。

 しかし一度張った意地と言うのは中々緩めるのが難しい。くどいが、嫌いなわけでは決してないのにどうして優しくなれないのだろうか。
 そんなこんなしている内に、さして遠くもない島の湯についてしまう。中に入れば、番台にいるのはやはり島津義弘。少しだけ驚いたような顔で二人を見ると、すぐににやりと笑った。

「ゆうと来たな、待っとった」
「島津殿、久方ぶりです」

 政宗に意地悪い笑顔を向けた義弘は、すぐ幸村に向き直った。

「元気じゃったか」
「はい、島津殿もお変わりなく」
「そこまで会っておらんわけじゃなかだろう。おもしとか男だな」

 そう言って呵呵大笑すると、義弘は政宗から投げられた代金を受け取った。幸村の肩をそっと押すと、先に脱衣所へ入ってしまった政宗を追いかけるよう小声で囁く。

「行け、お前ほいならなにゃあいつの機嫌は直らん」
「島津殿……」

 政宗は機嫌が悪いのだろうか。確かに、幸村がちらと顔を見たときには眉には盛大に皺が寄っていた。
 幸村は決心する。どうやら、ここは、自分が折れなければならないらしい。手間のかかる、と思って、幸村はふと微笑む。それは、多分今まで幸村が政宗や佐助に抱かせていただろう思いだからだ。気持ち一つで立場は反転してしまう。

「ま、きばいな」
「はい」

 力強く優しい笑顔で義弘は幸村を送り出す。幸村もそれに笑顔で応えた。

 脱衣所へ入れば、政宗は服を着たまま待っていた。その横へ移動して、何も言わずに下帯へ着替える。それを見て政宗も着替え始めた。黙々と黙ったままの二人だが、幸村は笑いを堪えるのに必死だ。
 自分達は、あまりにも滑稽。とても簡単なことをお互いは共有しているのに、なぜかこんがらがっている。それすら幸村にとっては政宗を好きでいるために必要な要素なのだ。自分の中の彼の情報が毎日更新され書き換えられる。書き換えられる情報こそが、政宗を好きだという証拠、そしてだからこそ自分達は滑稽なのだ。少しだけ複雑な世界が、政宗を求めて幸村を突き動かす。あまりにも衝動的なせいで、簡単すぎる欲求は行き過ぎて問題を複雑にしてしまう。

 幸村は政宗の整った横顔を見つめた。眼帯の下がどうなっているか、幸村はまだ知らない。

「……、政宗殿」

 返事を待たずに幸村は政宗の手を握って。大きな手は戸惑って一度開き、そして幸村の手をしっかりと握り締めた。
 顔を合わせると、政宗は気まずそうに目を逸らす。だが、気まずいのは幸村も一緒だ。一人だけ逃げられては困る。強く握り返すと、無理矢理目を合わせる。一つしかない瞳が見開かれた。

「仲直り、しませぬか?」





 その提案に頭がくらくらとした。政宗は目の前で笑う少年を遠く感じた。近づきたいのに、近づきがたい。遠い、しかしつめられる距離。

「悪かった」

 するりと吐き出される言葉に、幸村は笑顔を深くする。幸村から切り出させてしまった、自己嫌悪が政宗の胸を刺した。思い悩んでいても始まらないのだが、彼に対してはどうしても慎重になる。

 なぜなのか。解らなかった。

 元々、深刻に思い悩む性質でもない。幾ら自身が気に病んでいても、どうしても解決できない事柄と言うのは存在する。政宗にとってそれは「家」に纏わることであった。
 幸村も、そんなどうでもいいような、自分とは直接関わりがないことでこの場所にいるのだろう。それならば尚更政宗は幸村を守らなければならないはずだ。一つ一つ日を重ねるごとに、その思いは強くなる。

「行こうぜ」

 柘榴口を潜り抜け、湯船へ入る。

 武士にとって「家」とはどこまで大切なものなのだろうか。政宗には理解できない。政宗にとっての「家」というものは常に厄介ごとの元であった。いらぬ手間をかけさせ、政宗を拘束しようとする。江戸の町人は気楽でいい。その日暮しで明日のことすら考えなくていい。宵を越す金など野暮でしかない。
 刹那的なようでいて、それは非常に合理的なことだ。天災・人災は後を絶たず、貯蓄しようとしても徒労に終わることが多いのだ。だが頽廃している、というそしりを免れることは出来ないだろう。この、吉原と言う場所が江戸にある限り。ここは江戸が持つ刹那的な生き方を象徴するような場所だ。

 だからこそ、幸村と言う存在は政宗を不安にさせる。「家」の再興を夢見て、命を狙われながらも必死に生きようとする。
 自分にはない幸村の熱に政宗は惹かれていくのだ。
 繋いだ手は頼りない女の手ではない、力強い武士の手。幼さが残るとは言え、その瞳は武士の瞳。

「政宗殿」
「何だよ」
「……政宗殿」

 小さな、囁くような言葉は政宗の返答で安心したように消えていく。薄暗い湯船の中、誰も二人を見咎めることは出来ないはずだ。
 誰もいない辺りまで来ると、政宗は幸村を抱き締めた。

「本当に、悪かった」
「……構いませぬ。俺だって、意地を張りました」

 ゆっくりと湯に浸かる。肩口にある幸村の頭を撫でれば、いやいやと首を振る。その朽葉色の髪にキスを落とした。
 自分達のこれからに、幸あれと。見えない明日に、慈悲を乞うように。腕の中にある愛しい人が、永遠に自分の元にいられるようにと。




 

幸ちゃんに動いてもらわんとどうしようもねーぜー!