「女郎花」


 最上屋は火が消えたように静かだった。

 いや、いつものように遊女はさんざめき、客達は繰言を吐き続け、下働きは己の職務を全うしていたが。そこにある雰囲気は、いつものようでは全くなく、むしろその残滓のようだ。遊女達も客も全て最上屋に関係する人々は理由を知っている。
 一人、いない。一人、足りない。
 ひっそりと静まり返った内所から、一人が欠けてしまったのだ。





「よォ、元気かァ?」
「………………」

 最上屋に魚をいつも通り売りに来た元親を政宗は睨みつけた。睨まれる心当たりはないが、睨んでいる心当たりならあった元親は呆れたように政宗を見る。
 幸村が最上屋に帰らなくなってからまだ七日である。居場所は解っているのだから、連れ戻せばいいだろう。元親辺りはそう考えるのだが、政宗は裏の裏まで考え込んでいる。

「んだよ、シケた面して」
「……煩ェ」

 そして手にした壜から薄緑の液体を杯に注ぐと飲み干した。
 元親は遊女達を見て肩をすくめた。これは完全にダメである。

「まこと情けありんせんで」
「ここのとこはずっと酒びたりでありんすぇ。情けありんせん」
「あー、ほら言うじゃねェか、お医者様でもってなァ」
「それにしてもみっともないったら。ああ、幸村ちゃんが恋しいでありんす」
「アイツならこんな馬鹿、一蹴してくれるッてのによォ」

 そんな暴言にも政宗は何も言わずに酒を呷っていた。
 実際政宗自身でも不思議なのだ。自分がここまで凹んでいることなど、滅多にない。

「全く、これで伊達衆気取ってたんだからなァ。泣かした女も浮かばれねェな」
「まことまこと。……あら、どなたかきいしたよ」

 すっかり潰れている政宗に代わり、いまや殆どの業務を仕切っている遣手が遊女の一言に立つ。実際この状態の主人なら逃げることも容易いだろうが、呆れきった遊女達は逆に彼を盛り立てようとしていた。妓楼としてはまずないことだ。

 元々、政宗は年季明けの遊女を理屈をこねて妓楼に繋ぐような人間ではない。どちらかといえば引き取り手のない、行く先もない遊女達にもどこかしら居場所を見つけてくる。また苦界に落とすことはけしてなかった。遊女の年季は二十七に終る。その後の行く先もまた、遊女にとっては気がかりの種であった。
 そこに、幸村が遊女達を思い妓楼を変えていった。ここは既に苦界ではなくなっている。ここに居たほうが、外を知らない遊女達にとっては良いようにしやすい。外を知っている遊女はここのが居心地が良いとまで言い放っていた。

「米持ってきたべー!」
「あら、いつきちゃんでありんすか。少うし待ってくんなまし、お代持ってきんすから」
「旦那はどうしたけろ?」

 全く動こうとしない政宗にちらりと視線をやり、元親は溜息を吐いた。その姿を見つけたいつきは入ってもいいと判断したらしく遣手に許可を求める。遣手も「がつんと言ってやってくんなまし」と快く許した。

「おう、嬢ちゃん。コレなんとかしてくれ」
「何しただ、コレ」
「幸村に逃げられたんだとよ」
「?幸村なら沢潟屋におるべ。つれてけえればええど?」

 その一言がまた政宗を刺激したらしい。壜から注いだ酒を思わず畳にこぼしてしまっていた。そんな状態を見て、いつきはしかめっ面になった。情けなさ過ぎる。

「また変な色の酒さ呑んでんな」
「伴天連の禁制品らしいぜ。あぶなんとか言うヤツだ」
「男のクセに情けねえ。幸村は別におめえさ嫌ってねえべ」

 と言われても、幸村が自分から帰ってこない限りこの無駄に頭のいい男は納得しないのだろう。再び無言で酒を飲みだす政宗を見て、その場に居た全員が溜息を吐いた。





 先程のいつきの言の通り、幸村は沢潟屋に居た。問題を相談するにあたって、一番思慮深そうな人間を選んだのだ。すると、幸村の吉原でのあまり広くない交友関係からすれば必然的に元就になる。
 元就も最初は驚いたが幸村のそのあまりに真っ直ぐな悩みに、苦笑をもらしつつも滞在を許した。

 氏素性は知らないが、気性だけは良く知っている。命を狙われているとは言っても吉原の中ではその心配は無用。政宗の心配は少し行き過ぎているのだ。それほど、吉原と言う場所は特殊である。一種の治外法権と言っても過言ではないだろう。遊女達を逃がさないための監視の強さはそのまま入ってくる者にも向けられる。犯罪者が逃げ込んでもすぐに見つかってしまう。それは吉原がその強さを持つために、政府とも宜しくやらなければならないからだ。
 それに沢潟屋は菓子屋。人の出入りは妓楼より断然少ない。

「すみませぬ、元就殿のお手を煩わせまして……」
「構わぬ。どうせ最上屋につけておくからな」

 幸村は沢潟屋の二階の座敷を一部屋借りていた。最上屋の一言に、幸村の肩が揺れる。
 元就は苦笑した。

「気に病まずともよい。あれはそれ位解る」
「しかし元就殿……」
「最上屋も馬鹿ではない。既に話はついているぞ」
「…………」

 それはつまり、沢潟屋に幾らでも、幸村が望めばこれから先ずっといてもいい、という免罪符だ。政宗の甘さに元就は再度苦笑した。そこまで大切にしているなら、何も恐れることはないのだ。

 勿論、政宗が今ぼろぼろだと元就は知っている。
 幸村についてもそうだ。彼の悩みの前提は幸村が最上屋に居たいからこそ前提になりえるのだから。それも政宗を苦しめないため、なんて、第三者は惚気られているとしか感じられない。幸村はお互いの気持ちの温度差に気付いているがそれはあくまでも温度差だ。そこにはまだ思い至っていない。

 良くも悪くも二人とも馬鹿なのだ。

「お久、いるか」
「何でしょうか元就様」

 ふわりと優しい笑顔になって、元就は茶を頼んだ。幸村も、元就の普段の営業スマイルとは違う見たことのない笑顔に顔を上げる。

「しばらく考えよ。傍目八目であるからな」

 幸村はこくりとうなずいた。





 元就の言葉は解らない訳でもない。幸村が解らないのは、政宗と自分の気持ちの違いだからだ。きっと元就から見れば先は簡単に読めるのだろう。
 元就は幸村の前ですあまを食べている。幸村も食べているが味はよく解らなかった。元就が作ったものだからおいしいだろうと思うのだが、思案で頭はいっぱいだ。味覚に割く思考領域がない。せっかく淹れてもらった茶も、水のように味気なかった。
 大体、自分は色恋には疎いのだ。武道ではすぐ、そこにある真実を汲めるのだが色恋となると全く見当違いの方向へ進んでいく。まだ不確定要素として扱いきれてないのだ。それならばそれで、いいのかもしれない。

 自分の対処できる方法で、とりあえずを過ごせば何か見つかるかもしれない。
 情報が少ない中で決断しようと思っても難しい。ならば情報を集めるまで。

「元就殿、紙と筆を貸していただけないだろうか」

 面と向かっては訊ねられないのだから。




 

ヘタレの本領発揮中です。