※あらざりしの続きです。

「至高天に辿り着くことができなかろうとも」


「旦那」

 佐助の言葉に振り返った幸村の目は、相変わらず凪いでいた。明るく光を弾いていた頃を知っている佐助はその瞳にいつも胸を痛めている。

「何だ」

 しかしその凪いだ瞳に、僅かばかりの変化がある。

 幸村が久秀の下についたとき、当然のように佐助もその後についていった。佐助が自らに課している絶対命令は幸村を護ることであり、それは信玄からも命じられていたことだ。死ぬ間際に佐助に書を飛ばしたあの虎は、出来うる限り幸村を正道へ導くようにと遺言した。忍に主を正道へ導け、とはまた異なことを言う人だった。
 だが、それは佐助の願いでもある。

「どうだった、独眼竜は」
「強い、方だ」

 凪いだ瞳が揺れた。

 そう、あの奥州王と対峙してから幸村はどこか落ち着かない。宙の一点を見つめていたかと思うと、そわそわと足元を見遣る。槍の刃を磨いていたかと思えば立ち上がって戦装束の傷を見つめていたりする。
 解りやすい人だ。思考より行動が先んじる彼らしい。

「気になる?」
「……解らん」

 佐助を振り返った幸村の瞳がまた、揺れた。そこにあるのは確実に執着だ。まだ薄いが、育てば強い力となるだろう。

「解らぬが、強くて、目映い方だ……」

 うっとりと目を細める仕草は、まるで恋をしたようだ。武田信玄を喪ってからの幸村は生きる情熱も失ってしまっていたが、どうだろうか。独眼竜と呼ばれる伊達政宗には幸村を引き上げられる力はあるのだろうか。
 どちらにしろ、これはいい傾向である。

「また、戦うことは出来るだろうか」
「さーね。松永はもう興味を失ったみたいだけど」
「…………そうか」

 端的に言えば、幸村は政宗に敗れた。何を思ったのか、久秀は幸村が負けた時点で兵を退いたため、政宗の人質はその用を成さずに解放されている。昔の幸村なら首を獲られなかったことを憤るはずだ。

 佐助はため息を吐いた。

 戻るはずもない、というのは解っている。あの少年は消えてなくなり、今の幸村になったのだ。それは齢を重ねた変化と同じものだ。幸村の場合は、それが多少、急激だっただけで。まるで、青春から玄冬へといきなり変わってしまったかのようだ。朱夏も白秋も、幸村は経験していない。
 飢えを知った以上満たされることは決してない。聡い幸村は理解していることだろう。思考を停止する愚かさをも理解しているはずだ。いつかは幸村も動き出す。破滅か、それとも栄光かは誰にもわからない事だ。

 久秀は幸村から依存を奪い、飢えを与えた。その飢えを糊口ながらも満たす男が現れた。

「旦那は、どうしたい?」
「俺は」
「失礼。本日の賞罰を伝えに来たが、お邪魔だったかね」

 戸口で嗤う男を見て佐助は表情を消した。幸村は心底嫌そうにそちらを向く。久秀は楽しそうだ。

「賞罰といっても何もないがね。卿には期待も失望もしていない」
「ならばわざわざ伝えずとも良かろう」
「何、敗けた兵の士気を高めるのも将帥の仕事だ」

 負けた、を強調する久秀に佐助はいつものこととなってしまった嫌悪感を抱いた。この男はいつも幸村を言葉で嬲る。幸村はそれを反論もしないで嫌そうな顔で聞くだけだ。
 佐助と彼が二人でかかればあるいは、と思うがまだ意外に正々堂々としたところを残している幸村が認めない。言いたいだけ言うと久秀は踵を返す。
 主の顔を見れば、また無表情に戻ってしまっていた。

「ああ、それと」

 まだ何かあるのか、と身構えた幸村を、久秀は嘲笑する。

「卿はまだわかっていないようだ。私は誰かが欲しがるのを邪魔はしない。卿が欲しがるままに動きたいのならばそうすれば良い。卿の戦力は確かに素晴らしいが、私は誰かが欲しがるのを邪魔するほど無粋ではない」

 幸村は憮然とした。佐助は呆れる。

 徹底的なまでに、欲望に忠実。その代わり相手が欲望に従うことも許容する。それを許容しない欲望もきっとあるのだろうが、幸村に対してはないようだ。

 ただ単に、猫に軒先を貸しただけと思っているのかもしれない。久秀のような人間に幸村の忠誠は重いのだろう。
 しかし、と佐助は考える。これはもしかしたら、次への布石なのかもしれない。警戒しておくに越したことはない。





 雪が音を吸い取っていく。庭に積もった雪は地面を隠し、全てを白とする。味気のない色だが、その中に含む虹色が月光に踊り美しい。
 煙を呑みながら、政宗は雪降る庭を見物していた。

「……ばか、死ぬぞ」
「死ぬ、の、は、厭だ」
「だったら上がれ。着替えを用意させる」

 突然、庭石の近くの雪が盛り上がる。出てきたのは寒さに青ざめた少年だった。久秀の元に居た、あの「つきのおきな」だ。歯の根が合わないらしく、言葉は途切れ途切れである。
 目の前で誰かが凍死など、気分は良くない。急いで縁側に上げ、火鉢を使わせる。氷のように冷えた少年に頭が痛くなった。何を言っても驚くことのない小十郎に袷と綿入れを持ってこさせると、風呂に湯を沸かすよう指示した。

「かた、じけな、い」

 身体が巧く動かないらしい。幾度も手ぬぐいを取り落としては拾っている。ため息をつくと、政宗は少年の手から手ぬぐいを奪った。

「じっとしてろ」
「は、はい」

 こするようにして全身を拭いてやる。細身の身体だが筋肉はしっかりとついている。傷だらけの、戦うことを知る身体だ。
 着物を着せ付けると座らせた。幸いなことに炎を操る性質からだろう、身体の芯までは冷えていないようだ。凍傷の心配はない。震える肩に触ると、後ろから抱き締める。

「な!」
「オイ、暴れんな!体温で暖めるだけだ」
「……う」

 途端に大人しくなる少年に苦笑した。一体なぜ雪の中から、と問えば、雪が降る前に居たのだがあそこで寝入ってしまったらしい。その剛毅さに呆れる。
 今の少年は、最初の印象とは違った。そもそも彼が感情を顔に現すという時点で、あの時とは決定的に違う。今も政宗の腕の中で震えているが、寒いのは嫌だと思いっきり態度に出ている。その様子に安心した。武器の一つも持っていないが、ここまでどうやってきたのやら、逆に心配になる。
 この少年は政宗の敵のはずだ。それはそのまま、彼にとって政宗が敵であることも意味する。暗殺に来たのならば小十郎を呼んだ時点で何かしらの行動を起こすだろう。では、彼は何をしにここにきたのだろう。

「で、アンタ何しに来たんだ?」

 尋ねてみれば、少年は首をかしげた。

「某、松永から出奔してまいりました」
「は?」
「いてもいなくても同じであるから、好きなようにしろと言われましたので好きなように致しました」

 つまり政宗に会いに、そして出来るならば仕えたいという意味でいいのだろうか。
 唐突だ。駆け引きも何もない、ただそうしたいと思ったから行動したとでもいうような、計算のなさ。だからこそそれが本心であると信じられる。いてもいなくても、など、この鬼と一度でも相対すればそんなことは言えない。計算を覆す強さがこの鬼にはある。

 松永久秀は、この鬼の何かが気に入らなかったのだろうか。

「そりゃ、俺に仕えたいってことか?」
「仕えるというよりは、お傍に。貴殿は某を満たしてくださる」

 鬼は鬼でも、炎を纏う餓鬼なのか、と政宗は納得した。悲しみの代わりになるものをずっと求めていたのだろう。
 果たして人間に戻すことは出来るのだろう。しかし政宗の腕の中でぼんやりと火鉢を見つめる幸村は人間に見えた。

「政宗様、湯が」
「Thanks、小十郎。ほら行くぞ」

 小十郎が政宗を呆れたように見つめるが、そんなのは知ったことではない。この少年が政宗の下に来るというなら受け止める。

 立った少年に新しい着替えと風呂道具を渡した小十郎は、目元を険しくした。

「真田」
「片倉殿。お世話になります」
「決定事項か。忍はどうした」
「佐助は――」

 黒い影が庭に下りた。雪を体に積もらせてなお、寒さを感じさせないのは忍だからだろうか。
 忍にしては荷物が多い。紅い二槍に、風呂敷包みを幾つか背負った忍は、呆れたようにため息をついた。

「だから正面から入れてもらえって言ったのに」
「忍。いっそ紐に繋いどけ」
「俺様だってそうしたいですよ。でも引っ張られていくのはごめんだからね」

 それに、とその覆面と頭巾を取った忍は続ける。ひどく明るい橙の髪が月光に跳ねた。

「二人きりで逢いたいとか言ってんだから、邪魔なんか出来ませんって」

 その言葉に政宗は少年を見た。政宗のすぐ横に立つ少年は、忍の言葉に頬を染める。
 どうやら、自分の部下と彼らは知り合いらしい。目で問えば、小十郎がため息をついた。

「そちらの少年は真田幸村。あの武田信玄公の元家臣です」
「What?アンタが?」
「はい。某は真田源二郎幸村。……拙くも、お館様の下で武働きをさせていただいておりました」

 信玄のことを呼ぶ声に耳を疑う。寂寥と罪悪感と幸福が混ざり合って滴るような、あたかもいない神を呼ぶかのような声音だ。なんてことだ、と政宗は呆然とする。
 依存を取って、子供を餓鬼に仕立て上げ、そして。
 松永の狙いが見えた気がした。幸村を使って政宗に何かを仕掛けようとしている。あの男は一貫して政宗の刀を狙っていた。それを手に入れるためだけに、幸村を壊したとしたならば。

「政宗、殿?」
「小十郎、急いで周辺の動きを調べろ。あと、奈良周辺の黒脛巾呼び戻せ」
「勘がいいねえ、さすがかな。そっちの方なら俺様の部下も多いから、繋ぎ取らせてよ」
「……小十郎」
「来い、忍。その話はこっちでする」

 許せないと思った。
 握り締めた手から血が流れるほど、強く、強く。






考えてみれば、生きてる時に「お前はこの煉獄に来るんだぜYahaaaaaaa!」って言われたダンテ超かわいそうですね。
あとちょっと続きます。