「ヴァルキューレ葬送曲」
部下の一人の言葉が、胸を深く抉っている。手綱を握りなおした政宗は、背後を振り向きたい衝動を堪えながら戦場から逃げていた。
敗北、の二文字が頭の中を回り続けていた。よりにもよって、あんなのに負けるとは思わなかった。南蛮から来たという宣教師はあっという間に政宗の領土を奪い取ったのだ。
ほぼ内乱に近い形である。領民達や家臣に基督教徒が多かったのが原因だろう。あの宣教師の言葉は不思議と人をひきつけるらしく、大半の基督教徒は宣教師の元へと走っていった。読みが甘かった、としか言いようが無い。
「『政宗様、早くお逃げを!』」
なんて馬鹿な部下。自分よりも年上で、いつも傍らで静かに諌めてくれた存在だ。
歯を食いしばる。折れそうなほどの強さに、奥歯がぎり、と悲鳴を上げた。
「『大将がいればまた戦は出来るんだよ』」
嘘だらけだ。そんなのは知っている。無理やり自分を馬に乗せた自分の親族はその剛毅な笑顔を少しだけ強張らせていた。
「『貴方はいつも通り腹黒く悪事を巡らせばいいんですよ。俺達もすぐに逃げるのでご心配なく』」
捕まったとしても生きて助け出せば何の問題も無い、といつも通りの掴めない笑顔。そもそも捕まらないと即座に反応した成実に、景綱と綱元はそれもそうだ、と笑い合っていた。
そうして、三人は政宗の馬を無理やり。
「『Kidding!!?』」
その一言すら叫ぶ暇はなかった。耳に残ったのは一言だけ。
「『政宗様、甲斐へ。後は信玄公が良きように図って下さいます』」
小十郎、と名前を呼ぶことも、許されなかった。
甲斐へ。景綱はこの戦に最初から反対だった。彼が見通した現実のが今に近かったのだ。景綱の意見を入れていれば、もしかしたらこのような無様な敗北だけは避けられたのかもしれない。そして景綱はこうなることを予測し、さらに一つ手を打っていたようだ。
そういえば、この戦を決めた後、重綱の姿を見かけない。時折政宗すら戦慄させる景綱の冷徹さは、実子を人質に出すことも躊躇わないのかもしれない。それもこれも、元はと言えば自分のせいだ。
自己嫌悪の悪循環にはまりかける。よりによって甲斐の虎の元へと自分は落ち延びていかなければならない。信玄は客将などと甘い身分を用意してくれる男ではないのだから、それはつまり武田家に跪かねばならないと言うことだ、伊達という家は残してくれるだろうが元の奥州筆頭としての地位には戻れない。
政宗の天下への夢は、ここで、潰えてしまったのだ。
失ってから重みがわかる、と言うこともある。政宗にとってそれは部下達であった。平素から重用したつもりではあっても、後悔がほろほろと胸を滑り落ちていく。
取りとめもない後悔と自己嫌悪の波。飲み込まれて、いつしか周囲を警戒することも忘れてしまった。
「独眼竜殿とお見受けする!歓迎致そう!!」
「Orps!!」
能天気にそう叫んで大きく手を振っている人間に、思わず声を上げて馬を止めてしまった。
武士にしてはやたら細いな、と思ったのも当然だ。政宗を出迎えた(出迎えたと言っても山の中だ)赫い戦装束を着た人間はぱっと見解りづらいがその体の線は明に女のもの。
どこか掠れて響く、多分戦場で声を張り上げて喉を潰してしまったのだろう声はその容姿に似合わないアルトの柔らかさを持っている。潰さなければとんでもなく良い声だったに違いない。
「アンタは?」
「某は真田源次郎幸村。お館様より貴殿の迎えを仰せつかった」
屈託無い笑顔で笑うその顔は、政宗が見たこともない「女」の顔だ。いや、幸村は女ではない、男女というつまらない括りを抜け出したかのような。男としてこの乱世を生きてきて、欲に塗れた裏の世界をも覗いているはずなのに、いや、女性であることを隠してはいないのだろうから更に世界はどす黒く幸村に迫るはずなのに。
訂正。政宗が見た幸村のその笑顔は、政宗が見たことの無い人間という生き物の顔だった。少しだけ、唖然とする。
戦国の世、と言うのは常に誰かに犠牲を強いる。果たしてこの人間は、一体何を犠牲にしてこの笑顔を守り抜いてきたのだろう。
「お疲れであろう。まだ屋敷などの準備は調っておらぬが某の屋敷の一部屋を用意した。ゆるりと休まれるがいい」
「あー……、Ok、解った」
どれくらい足元を見られるか、と気負っていた心がさらさらと解けていく。気勢を殺がれて胡乱な返事になってしまった。
そしてようやく、相手の名前が頭に届いた。
「アンタ…………あの、「紅蓮の鬼」か?」
幸村ははにかんでそしてこくり、と頷く。その少年の様な仕草がやけに似合っている。
政宗は手を額に置いた。何てことだ。
惚れて、しまった。こんな、女子とも少年ともつかぬ武人に。
先程まであそこまで悩んでいた自分の敗北も、現金に吹き飛ばされていく。
「某には不釣合いな二つ名ではあるが……」
政宗は見たことが無い。舞踏のように鮮やか、と形容されるその強さを、美しさを。今まですぐ近くにありながら甲斐と奥州は戦ったことが無かった。同盟を結んではいるが締結した時に幸村は居なかった。
急病だと言っていたか。
政宗は自分の悪名……もとい評判を知っている。節操が無いやら英雄色を好むやら伊達衆やら、それは政宗にとって一種の賛辞でもあるが世間的にはあまり聞こえがよろしくない二つ名だ。
過保護と噂の信玄は、見せることすら嫌がったのかもしれない。
そりゃあ、幸村は目が肥えている政宗から見ても十分な上玉だ。女として、というよりも人間的な魅力がその体に詰まっている。不思議なくらいしなやかな筋肉は実用のためにしかなく、円みの少ないシャープな躯のラインは逆に美しい。人懐っこくしかし豪快な笑顔は猫のようだ。
「そうでもないんじゃねぇか?」
その言葉に幸村は破顔一笑した。
「何だか、そういっていただけると嬉しいな」
笑わないでくれ、なんて思ってみるも、その満面の笑顔に見蕩れてしまう。木漏れ日が幸村の周りを柔らかな金色に縁取っていた。
行くか、と行って馬を進めた彼女は、すぐ馬をとめて政宗を振り返った。
「そうだ、独眼竜殿。頼みがある」
「何だ?」
「貴殿の名はこの山奥にも届いておるのだ。落ち着いてからでも良いが、某と手合わせをして戴きたい。良いだろうか?」
その瞳は煌く武人の色だ。背筋を駆け上がる高揚に政宗は不敵な笑みで返した。それはほぼ武人としての本能だ。
「構わねェぜ。何なら、今すぐでも」
「はは、それはご遠慮仕る。貴殿、傷だらけであろう。……応急処置だけでも、しておくべきか?」
隣に馬を止めた政宗の体を眺めやって、幸村は眉をしかめた。ああ、そういえばと政宗も自分の体を見下ろす。
自惚れた戦ほど無意味なものはない、と知っていた。それは師から何度も、何度も念を押されていたことだ。それでもやはり自分は自惚れていたようだ。政宗は全身にある傷に歯噛みする。
「うむ……そう深い傷はないが、少し血が多いな。ついて来い」
ゆっくりと馬を歩かせる幸村は政宗に配慮しているのだろう。気遣いが嬉しく、政宗は文句も言わずその後ろに従った。
やがて水の落ちる音が響いてきた。ほんのりと真水の香りが当たりに漂ってくる。
案内されたのは滝だった。ひっそりとある、あまり深くもない川の途中。清い水が流れている。ぱた、ぱた、ぱた、水飛沫が滝壷近くの白樺を叩いていた。
山の動物達が利用する場所なのだろう。あまり人の使っている気配は感じられず、ただ幸村ならばこの場所を知っていることに何の不思議もないと思えた。彼女は、どちらかと言えば人よりは精霊や動物に近しい雰囲気を持っている。
それは政宗の偏った見方なのかもしれない。しかし幸村は政宗の持つ世界では人ではなかった。
木花之佐久夜毘売命や沼河比売のごとく、神性を纏わせていたのだ。まだ出逢って一刻と少し、だからこその印象なのかもしれないが。
「しかし某では独眼竜殿の手伝いは出来ぬな……佐助!おるか!?」
「居ますよ、勿論」
思案に耽っていた政宗の沈黙を、逡巡と受け取ったらしい幸村は空を見やって声をかける。音もなく二人の背後に降り立った影は、政宗も何度か……そう、あまり良いとは言えない状況で戦ったことがある。
忍頭だと言っていたか。その時はこのような忍を抱える真田という家に少なからず脅威を覚えていた。
「手荒く扱わぬように。それとわざと痛い薬草などを使うなよ」
「信用ないねえ。ま、大事な客ですからね、そんなこたぁしません」
「そうか。――独眼竜殿、某は少しそこらを散歩してくる。無礼ではあるがお許しくだされ」
ささと手はずを整えて、笑顔を向けてそんなことを言う。文句の出る暇も筈もなかった。
「ああ、すまねえ」
自然と礼の言葉が唇を滑り落ちる。
たすとす下草を踏み分ける音を立てて幸村は木々の狭間へ消えていった。時々ちらりと赤が覗くも、決してこちらへ来ようとはしない。
「じゃあさっさと手当てするぜ。こっち来な」
「……ああ」
本当に花が消えてしまったようだ。忍は手馴れた様子で傷を検分すると幸村から手渡されたらしい手ぬぐいを水に浸し、政宗の体を甲冑の上から清める。
「結構酷くやってんねぇ」
政宗に自覚はなかったが、傷はそれぞれそれなりのものだ。特別深いわけではないが、量が多い。手当てしなければ失血で体力が奪われていただろう。簡単に手当てをされる、が。
「…………独眼竜の旦那」
「あン?」
「旦那は……ああ、真田の旦那はどうです?」
何度か首を狙った手になすがままにされていた政宗は、その言葉に我に返る。忍の言葉は低く、静かで、きっと政宗にしか届かない声量だ。
頭の回転は悪いほうじゃないと自負している。だからこそ、政宗は信玄が政宗を受け入れた理由を理解した。
「アイツには、早ぇンじゃねえか?」
「噂通り目は確かっすね。確かに、旦那自身にはまだ早いでしょうよ」
でも、もう十七なんですよ、と忍は苦笑した。
「愚行だな。あれは今手折られるべきモンじゃねェだろう」
「俺も大将もそれにゃ同意しますぜ。煩いのは周り。そりゃ俺だって旦那をまだしたいようにさせてやりたいけどね」
いい加減庇うのも限界らしかった。年頃の女性が嫁に行かない、というのはあまり外聞がよろしくない。「紅蓮の鬼」でもそれは同様のようだ。
武人として素晴らしい素質を持つ彼女が奥に入るなど想像も出来ない。更に忍の話によれば、彼女は真田家当主でもあるという。
真田家の名を途絶えさせないためにも、子供が必要、ということでもあるのだろう。
「極端な話、旦那自身の子供さえ一人居ればいいんですよ。嫁に行く必要もないんです」
「種ってことか」
「……それだけ、独眼竜の旦那を大将は買ってる、っつうことっすね」
他に分家等は居ないのか、と問うと、忍は少し暗い顔になった。後ろで見え隠れする赤をちらりと見て、政宗に視線を戻す。
「旦那は天涯孤独です」
「……Ha、全く愉快な話だぜ」
愉快な話すぎた。彼女はそのような俗世に浸るような人間ではない、いや、政宗が浸って欲しくないのだ。確かに確証も何もない不確かな直感だがそれは真実だろう。
紅く麟と咲く華は天上目指し踊り飛ぶ。飛翔する美しさは誰の目も射止めて、例外は存在出来ない。紅蓮の鬼は燃え躍る焔から生まれそして神の舞を踏みそのまま焔へと還るべきなのだ。
ただ。
政宗の中に、一滴の暗い思いが生まれなかった、といったら嘘になる。
手折るのならば、いっそのこと己の手で。それは非常に政宗を惹き付けた。
「ま、そんな訳で独眼竜の旦那にゃこれからお世話になるんで。あ、俺は佐助。猿飛佐助だよ」
「Fummm……。敵対する理由もねェか」
これで、政宗の両足に枷が嵌められた。自分を嘲笑う。
信玄はそれすらも見越していたのだろうか。その老獪さに背筋が寒くなった。これが、幾ら望んでも手に入らない経験の差なのだ。
佐助が手当てを終えて立ち上がった。
「終わったか」
「ええ。大体大丈夫っす」
「では行くとするか。少々遠いが我慢してくだされ」
やはりその紅い笑顔は政宗の心を騒がせた。
すぅっと気配が変わった。
「はぁぁぁぁぁぁあッ――!」
まるで一瞬にして距離が詰まったようだ。二槍に見立てた二本の棒が炎を纏って政宗を襲う。
舌打ちをして木刀で攻撃をいなす。殺しきれなかった衝撃が木刀を通じて手のひらを痺れさせた。
政宗が武田に下ってから一年が過ぎていた。
下った当初こそ家中からの風当たりは強かった。しかし信玄の勧めに従い、一度全軍の前で幸村と手合わせした後は誰も何も言わなくなった。いや、むしろ政宗に尊敬の眼差しを投げてくる兵まで出てくる始末。
強い者はほぼ無条件に受け入れられてしまう、佐助が苦笑しながら漏らした言葉を思い出す。幸村と互角あるいはそれ以上の勝負が出来るのはこの国では信玄と佐助だけ。新参者とは言え、幸村に勝るとも劣らない力量の政宗はすんなりと受け入れられた様子だ。
「Ha!」
一刀しか使えないのはやはり痛い。幸村の懐に入り込むと斬り上げるが、寸での所で彼女は後に跳ねた。そこは槍使いの間合いである。刀の政宗ではリーチが足りない。襲い来る二槍をぎりぎりでかわし、すぐに突進すると幸村の瞳が一瞬驚愕を映した。
再び懐に入る。そのまま勢いを使い柄を鳩尾に叩き込む、寸前で止める。
「止め!」
辛い勝利だ。
礼をかわす。佐助がにやにやと政宗の肩を叩いた。
「旦那に勝ちっぱ、なんて大将以来なんだよね」
「Ah?アンタは負けたことがあンのか」
「はっきり言うねー。ま、二、三回かな?実戦だったら負けないけどね。コレは闇討ちできないから」
忍ならばそうだろう。政宗は肩をすくめた。
佐助は幸村と兄妹のように仲が良かった。実際本人の話を聞くところによれば幸村の指南役兼子守だったというから頷ける。信玄以外に彼女が素直に……いや、渋々でも言っていることを聞くのは佐助だけである。
「やはりお強い」
「アンタもな」
機動性ならば政宗に勝る。更に一撃も意外と重い。ただ、実戦の差とでも言うのだろうか、戦場で政宗が積んできた勘が勝敗を分けている。咄嗟の判断がまだ遅いのだ。
掛値なしに、強い。だからこそ政宗がここにいる理由が重く胸を刺した。
佐助や信玄のように情は絡んでいない。ただ単純に、能力ある者が埋もれていくのが惜しいだけだ。それと同時に、染みが段々広がっていくのも政宗は感じていた。
武人としての彼女ではなく、女としての彼女を求める自分だ。一種の免罪符を政宗は与えられている。政宗はいまだに屋敷を与えられていない。政宗に与えられている部屋は幸村の屋敷の離れなので手を出そうと思えば簡単に出せる。しかし、その強さを曇らせたくないという思いも強く、いつも拮抗していた。
手を握った。自分の部下たちとも連絡が取れない。宣教師達は既に奥州を取り、武田と天下を二分した。極刑に処された、という話も、入信した、という話も聞かない。きっとどこかに潜伏して、動く機会を見計らっているのだろう。
信玄の下で働くことに異議はない。政宗の経験や意見は信玄にとっては貴重なのだ。異国の言葉や事情に通じているためどちらかと言えば重用されている。信玄の目的が天下だけでなく世界に向けられていることを知った時、政宗は完全に勝てないと感じた。
政宗もそれを考えてはいた。実行しようとは思わなかったのだが。可能なプランを考え付いてしまうのが、信玄の偉大さと言える。そしてそのプランに自分も組み込まれていたのだ。
計画が壮大で破綻がない。何より先見の明に優れている。景綱より先を、誰よりも前に見越していた。
「政宗殿、戦評定の時間になりますぞ」
「あ?もうそんな時間か」
明日はついに奥州を奪った宣教師達との戦への、出発日だ。
夜はひっそりと静まり返っていた。離れにいる政宗も、静寂が鼓膜を叩くのを感じている。
幸村はどうしているだろうか。明日の行軍に備えてすでに寝ているのだろうか。佐助は今日は事前の偵察で出ている。
誘惑が胸の奥で手招きしていた。地獄の底から来るような誘いは、必死に撥ねなければずり落ちてしまう恐怖を伴う。甲斐に下ってから、日ごとに強くなっている。自らを抑えるため、一睡も出来ない夜さえ珍しくなかった。
気配が動いた。誰かが離れへ向かって歩いてきていた。その気配は間違えようのない真紅をしているのだ。ずるり、と片手が落ちる感触。それでもまだ政宗は理性の内に留まろうと足掻いた。いつも通り、いつも通りに接すればいいのだ。あるいは、寝たふりをしていても。
「政宗殿、宜しいだろうか」
こんな夜中に来るなどとは、一体どういう了見なのだろう。
佐助はきっとそんな想いを幸村に対して持ってはいないだろうから、知らないのかもしれない。湧き上がるような、この衝動を。それは時に何よりも強く政宗を衝き動かす。
嗚呼。来るな。
「政宗殿?」
来るな。来るな。来るな。来るな。
流されたくない、穢したくない。いや、本当はどうなのだ。流されたいのでは。穢したいのでは。そんな筈はない。言い切れるか。言い切れるのか、自分は。
言い切れる、のか。
政宗は眩々する目の前を掴む。それは彼岸を誘い込む、外への障子。
そう、彼岸。歩くことすら容易ではない。政宗の中で動と静がせめぎあっている。開けて彼岸が映るか。
言い切れない。
頭の中が言い訳を吐き出し始めた。
「もう寝てしまったのか」
「開いてるぜ」
するりと開いたのは、障子か、それとも本能を閉ざしていた理性なのか。
「申し訳御座らぬ、この夜更けに。実は明日のこと……」
入ってきた幸村の腕を掴んで押し倒す。その瞳は見開かれていた。虹彩に映る自分の顔は酷く滑稽で、政宗は嘲笑った。
夜中に男の部屋に来るのが悪いのだ。いや、そもそも同じ屋敷の中に。根本的な問題は信玄の策のせいだから、許される。
どこか軋んだその言い訳たちを必死で繋ぎ止める。
「政宗、殿……?」
呆然と呟く幸村の顔が歪んだ。この一年で培った信頼が、この瞬間に消えたのを政宗は悟った。胸の奥で扉の閉まる音が聞こえる。
後悔が体を重く満たした。それでも政宗の深い本能は止まることを許さない。
「このようなこと…………なぜ」
「Why?「なぜ」か、そうか」
地の底を這うような割れた声だ。
「何でだかな」
幸村が不思議そうな顔をする。多分、政宗は非常に間抜けな表情を彼女の前に晒しているだろう。押さえつけている力は強い。時々幸村が顔を顰めて痛みを訴える。それでも政宗は手の力を抜けなかった。否、二律違反を起した精神が、それ以上退く事も進む事も許さなかったのだ。
動かなくなった政宗を見て、幸村は目蓋を閉じた。絶望がほんのりと眦に滲んでいる。政宗はそれでも動けない。
「お館様…………」
そう一言呟いた。
背筋を這い登る悪寒に政宗の体がバネ仕掛けの人形の動きをした。幸村の口の中……正確には上顎と下顎の間に手を突っ込む。
「Ouch……!」
食いちぎられそうになった指を押さえて呻いた。咄嗟に幸村も加減したらしくそんなに酷い傷ではない。
血まみれの政宗の指を幸村が慌てて取った。いつも額に巻いている鉢巻を外すと止血する。
「何をしておられる!」
「You mustn't say!Those are my words!」
予想できたはずの幸村の行動だ。彼女ならやりかねないが、思い至らずに私欲に走った自分が憎い。そして簡単に自害しようとした幸村に、ぶつけようのない怒りを感じた。
「政宗殿、何を……」
「Freeze!!I seriously love you!Why do you begin to die soon?!」
生きてこそ、なのだ。政宗の勝手な願いではあるが、それはこの武田軍全体の願いでもある。押し付けだ。だが果たしてその人に生きていて欲しいと願うことは罪だろうか。
幸村は驚いた表情のまま政宗を見つめている。ようやく政宗は自分が幸村には理解できない言語で喚いたことに気付いた。
一度ゆっくりと息を吸った。
「悪ィ。気にすんな」
誤魔化すように笑って幸村から離れた。幸村は先程とは打って変わり、無表情で政宗を見ている。その静かな瞳から逃れるため、政宗は幸村に背を向けた。
「政宗殿」
「なンだよ」
「先程は何と仰られたのだ」
「気にすんなっつてンだろ」
「気になります」
政宗は応えることをしなかった。やがて、幸村は障子を開けて出て行った。
「行くぞ!」
晴天の空に声が轟く。幸村は殿軍だ。信玄のすぐ後ろに配置された政宗と一瞬すれ違ったが結局一言も交わさなかった。政宗が幸村を見て、つらそうな顔をしたからだ。
痣になってしまっていた手首を摩った。
政宗は、幸村にああいった意図で近づいてきていたのだろうか。いや、昨日の昼間まではそんな様子はほとんどなかった。確かに時々、男の目で自分を見ていたことには気付いていたが、それ以上に政宗は自分を武人として見ていたはずだ。
幸村はまだ奥に入る気がない。女性としていずれは誰かに嫁ぐなり養子を取るなりしなければならないのは解っている。真田家の生き残りとして、自分は子供を作り家名を存続させなければならないことも知っている。
だが今はまだ信玄の下で働いていたかった。
「旦那」
「佐助、戻っていたか」
信玄に報告は終えているようだ。次の任務はきっと幸村の護衛なのだろう。
まだ全軍の三分の一程度しか進んでいない。殿軍は暇だと思いながら幸村は荷物から団子を引っ張り出した。
「相変わらず好きだねえ」
「まあな。で、どうなのだ」
「うーん、簡単といえばこれ以上ないほど簡単に崩れる軍ですよ。でもこれ以上ないほど手ごわいでしょうね」
幸村は唸った。確かにそうかもしれない。
自分は信玄に心酔している。だがそれは確固たる疑念と疑念に対する回答で土台を固めた理由あるものだ。だが彼らは近視眼的な物の見方に囚われている。信じるだけで救われるのなら、苦行の果てに真理を掴む喜びに浸ることもないし、報われることを知ることも出来ない。
一芸を極めればすぐに解する事である。
ただ、信じることを極めたときに何が起こるのかが一切不明で、それが彼らの一番の脅威なのだ。
「どこが、違うのだろうな」
「ん?」
自分と、彼らと。爪の先程も変わらないに違いない。彼らはそれが正しいと信じている。そこに間違いはない。
正気と狂気の境目すら見極められない人間に彼らを断罪する権利はあるのだろうか。
「あー、旦那」
「何だ?」
「人を傷つけることすら愛になる、なんてのは嘘じゃないですかね」
「それも主観によっては変わってしまうだろう」
「そりゃそうですけど。しかしアイツ、自分達の事以外一切考えちゃねえでしょう。それは違うと俺は思うんですけどね」
愛とは無償なものでしょ?と笑う佐助に幸村も笑った。確かにそうだ。見返りを求めるならばそれは偽善に等しい行為だろう。
それもいつか変わってしまうのかもしれない。主観の世界は恒に揺れ動く。だが今はそれでいい。そして幸村は政宗のことを思った。
昨夜はただ哀しかった。意味が解らなかったのだ、政宗があの言葉の意味を説明してくれなかったことが。一晩考え込んでなんとなく言いたいことは解ったような気にはなった。
よくよく考えてみれば、政宗と幸村の関係は不思議に満ちている。
友情とも少し違う。好敵手といえばなんとなく合っているような。もし彼と戦場で出会っていたならどうだっただろう。あの独眼が幸村を見て燃え上がる様を想像すると、魂が震えるような気がした。
幸村はあまり恋愛について考えたことはない。晩熟ではないと考えているが、そもそも余り他者に対する好悪自体を考えたこともなかったと、今更ながらに思う。そうやって他人をわける事に無意識に抵抗を感じていたのだ。
女と男では元からの性質が違う。男に生まれればよかったと思う時もあるが、女でよかったと思う時もある。主に戦闘時の体格差なのだが、男は強く力があるが女は小柄ゆえの素早さと体の柔らかさに秀でている。どちらが劣っていると言うわけでもなくそれは特性だろう。
恋愛として好いた相手が敵であったなら、幸村はその槍の穂先を鈍らせてしまう可能性がある。そういう意味で武人としての幸村が避けてきたことなのかもしれない。
「佐助は好いた女子はいるのか?」
「はぁ??や、いると言えばいるけど」
「仮定の話であるのだが、その相手を押し倒した場合一体何を考える」
一瞬佐助の目が鋭く光った。こういうところは敵わないな、と幸村は立ち上がった。
「曲者ではない」
「……独眼竜の旦那か」
「体を倒されただけだ。他に何もされてはいないから安心しろ」
口の中でもごもごと呟く佐助の顔を体をかがめて覗き込む。
「本当に何もされてない。舌を噛もうとしたら止められたくらいだ」
「うわ!あんた何してんですか!!」
経緯を話せば、佐助は肩を落とした。
「そりゃ旦那も悪い」
「なぜだ」
「夜中にのこのこ男の部屋行けばそうなりますって」
「しかし訊いておきたい用件が……」
「誰かいたでしょうが。才蔵とか小助とか十蔵さんとか!」
どうしても自分で話したかったのだ、と言えば、兄のようなこの忍は頭を抱えた。
少し感覚がずれているのは自覚している。でなければ女は奥に控えているか政治の道具というこの時代、戦場に立ったりはしない。
「佐助は好きだ。お館様も好きだ。だが、政宗殿は好きとは何かが違う」
「はあそうですか」
「政宗殿が解らないと、哀しくなるのだ」
佐助はもう幸村の話をほとんど聞いていない。疲れたように遠くを見てへらへら笑っている。
「話を聞け」
「あーもう俺を巻き込まないで下さいって。じゃあ訊きますが、独眼竜の旦那に押し倒されてどんな気分でした?」
あの瞬間の政宗は酷く痛そうだった。その顔をさせている原因が自分なのは勿論、政宗がいつも見ている政宗ではなくなって、何か別の人間になってしまったようで哀しかった。
「旦那、一言言っておきますけどね」
「うむ」
「普通はそういうのを惚気てるっていうんですよ」
惚気ている。
そんなはずはない。幸村は首をかしげた。
「好きではないのにか?」
「好きなんですよ」
「好き?」
「好き。俺とか大将とは違う意味で、独眼竜の旦那の事を好きなんです」
知らなかった、と言葉が知らずに口からこぼれる。そりゃ旦那は純情ですから、と笑った佐助は幸村の頭を撫でた。
「全く子供なんだから、旦那は」
多分きっと、厳密に言えば好きとは違う感情なのだ。薔薇の女性詩人が謳った様に、彼に会った事は磁石が付くように当然のこと。魂が惹かれあうのも当然のこととして幸村は認識していた。
それを表す適当な言葉が見つからないから、好きというしかないのだ。
幸村はその考えが気に入ったと同時に、政宗の子ならば産んでもいいと強く感じた。
「佐助」
「はい」
「子とは、どうやって成すものなのだ?」
今度こそ佐助は撃沈した。
「政宗殿、話が」
陣を構え、夕餉も終わった頃。何かを決心した様子の幸村に、政宗は息を呑む。踵を返し幸村の幕舎に歩いていく相手を慌てて追いかける。
紅い幕舎に囲まれた幸村専用の場所は、いくつかの戦を経験したが今まで一度も入ったことがない。幸村は一番奥にまで入ってから、ようやく立ち止まった。
「何の用だ」
「…………俺も、色々考えたのだが」
するりと幸村は鉢巻を外す。髪を結っていた紐も取ると、濃い朽葉色の髪がさぁっと広がった。
「政宗殿は悩んでおられるだろうし、俺も中途半端で回答が与えられないまま、というのは好きではない」
「Ha……意味が解らねェんだが」
「つまり……少し、言い辛いのだが……」
鉢巻と紐を置いてあった櫃に突っ込むと、幸村は政宗の正面に来た。
「昨日の続きをお願いしたい」
「Are you kidding!?」
それは出来ない相談だった。
しかし幸村は誘うように手を延ばし、政宗の背をそっと抱き込む。政宗は苦しそうにその腕を外そうとした。
「政宗殿。俺はもう構わぬ」
「そんな訳ないだろ」
「……俺は政宗殿が好きだ」
だから、いい。そう耳元で囁く幸村に政宗は勝てなかった。
しかし前のような焦りはない。キスをする瞬間目を合わせて微笑むくらいに。
軽いキスを何度も交わす。幸村の瞳が自分を受け入れていることを確認する、いや。幸村は政宗を求めていた。彼女は多分これから政宗が何をするか解っていないだろう。それなのに身を任せてくれる、柔らかな満足に政宗は包まれた。
「 政宗殿……」
「何だ?」
「幸村、まだ子は成さぬ」
「……ああ」
戦装束を脱ぎながら少し寂しそうに幸村は笑った。手を貸しながら政宗も笑う。
その表情に安心したように幸村はまた言葉を続けた。
「俺はまだお館様のために、戦いたい」
「そうだな」
「政宗殿の右で、佐助と共に……」
窺うような視線に政宗はキスで答えた。
「構わねェぜ、幸村」
「政宗殿」
「呼び捨てにしろ」
幸村も、キスで答えた。言葉を交わすよりも確実な返答。もう一度目を合わせて微笑んだ。
脱いだ幸村の服を横にたたみ、政宗は自分の羽織りを下に敷いた。上に一糸纏わぬ幸村をそっと横たえる。女性の体つきではないが、しなやかな鹿のように美しい体だ。
膨らみの薄い胸に触れる。ふ、と軽く息を吐いて幸村が体を震わせた。柔らかく唇を開き乳房を舐める。
赤子が乳を吸うように舌も唇も使い愛撫すれば瞼を閉じて鳴いた。なんて愛おしいと、政宗は心から思う。
片手を動かして乳房を撫でた。朱鷺色がだんだんと色づいて、鮮やかな桃色に変わる。琴を弾くように愛撫の手を進めた。
「なんだか……」
「あ?」
「思っていたより、緩やかだな……っふぅあ」
「そうか」
細い足を抱えた。首筋にキスをしてしっとりと汗ばんだ肌を啄んだ。首筋からより強く薫る幸村の甘い体臭に眩々と酔う。
「ああ……ッぅうぁ」
幸村の下肢に咲く薔薇に静かに指を滑らせる。柔らかな緑に隠された花びらはまだ淡い色で、既に露に濡れていた。拒まれていない。安心して政宗は行為を続けた。
薔薇のぷくりとした中心を弾けば一際高い声が歌う。ただ喘ぐだけの幸村の青さにまた一層の愛しさが募った。
体を抱き締めれば抱き返される。何度も何度もキスを繰り返した。
「政宗……っ」
「幸村」
指をそっと花びらに差し入れる。中は熱く、政宗の欲望を駆り立てる。しかし相手は初めて、きっとこのような行為が何たるかも知らない相手だ。
最後まで行う気はなかった。
「ふぁっんぅう、いやぁ……っ」
ひくり、と白い喉を動かして幸村は極みに上り詰めた。
夜気に澄んで真白に浮かぶ体が眩しい。初めての快感に小刻みに震える体を政宗は抱き締めた。もうそれだけで政宗は満足だった。
「っはぁ、はぁ、はぁ」
「大丈夫か?」
幸村は苦しそうに、だが微笑んだ。二人は引かれ合うように唇を重ねた。
幸村の横に政宗がいた。二騎で全軍の先頭に立つ。その姿に、景綱は感動を覚える。
生きていることだけで素晴らしかった。潜伏していた期間中、情報はほとんどなかった。しかもどれも確実ではない。だから政宗が武田軍で活躍しているという情報も半ば疑っていた。確かな情報は一つ、武田が宣教師達を討つ支度を始めたということだけ。
生きていて、政宗が幸村の横に居るというのならばそれは景綱の願いが信玄に叶えられた、ということだ。例え主が天下を取れなくとも、彼が納得してあの位置にいる。景綱は政宗の部下である。主の決定には忠実に従う。
「成実、綱元、行こう」
頷いた成実は仙台笹の家紋を染め抜いた旗を掲げる。鬨の声を上げると、伊達の残党と呼ばれる人間達は武田軍に合流した。張り詰めていたミリタリーバランスが一気に崩れ、元々軍事的な訓練を行っていない宣教師達は簡単に崩れていった。
「政宗様!」
「生きていたのか!」
「我らは伊達の将。主の命は違えません」
言葉にされることは決してなかった。だがあの馬上で政宗の独眼は景綱たちの無事を願っていた。
言葉にならない願いを汲み取るのも、この下克上に溢れた乱世の中政宗に忠節を誓った景綱の役目なのだ。
そして、景綱は政宗の隣に佇む人を仰ぐ。
「お久し振りで御座います、幸村様」
「小十郎殿か。よくぞ生きていらしたな」
政宗に目で訊ねると柔らかな微笑が返ってきた。政宗が幸せになれたことを知って、景綱も微笑む。
「お二方、何なりとご命令を。我らはお二方の命を待ち焦がれています」
「政宗様の伴侶ならば俺らの主も同然だからな」
「見た感じ勝ち戦ですし。後で指揮されても構いませんけど、二人ともそんなタマじゃないですよね」
綱元の言葉に幸村が頷いた。苦笑しながら政宗も同意する。
狙いは、勿論、大将首。
「皆の者、行くぞ!」
「Are you ready!?」
大地を震わす鬨の声が戦場に響き渡る。
かくして、天下は武田の下に見事収まったのであった。
「白無垢など着るか!」
「しかし幸村様。結婚衣装と言えばコレですよコレ」
「旦那、腹括って着ちゃいなよ」
「大体なぜ佐助と綱元がこっちに回されているのだ!?常識人が居ないではないか」
男物の単を着た幸村は腰に手を当てて怒鳴っていた。ちなみに今日は幸村と政宗の婚礼の儀が行われる、はずの日。最後の最後まで幸村は花嫁衣裳を着ることを拒否しているのだ。
「一番の常識人に向かって何言うんですか」
「いや、鬼庭の旦那は常識人じゃないと思う」
「俺は普通の単でいい!!!」
「「良くないから」」
そこだけハモった二人に燃えるような視線を向ける。
「しかし晴れ着一着も持ってないんですね」
「全部捨てちまったからなー。大体この人が振袖って想像できる?」
「うわあ無理難題」
「もう良い!貴様らはあっちに行っていろ!」
一転して神妙な顔になった二人だが、すぐに綱元が何かを思いついた顔になった。佐助にこそこそ耳打ちする。その耳打ちを受けた佐助も、顔が明るくなった。
また何か良くないことを思いついたんだろう。幸村は疲れたように肩を落とした。
「旦那、いい衣装ありましたぜ」
「コレなら幸村様も満足間違いなし!」
「丁度仕立て直した所だし、いいんじゃない?」
最近仕立て直した衣装は一つしかない。幸村もそれを婚礼で着るのに異議はなかった。むしろ、政宗と自分ならばその衣装こそが相応しい。
紅蓮に燃える、戦装束。まだ信玄の戦いは終わらない。世界を手にするその日まで、幸村は信玄について戦うつもりだった。
「そう、だな」
政宗には申し訳ないけれど、やはりまだ止まれない。多分そんなわがままを苦笑い一つで受け止めてくれるだろう政宗の顔を思い出して、戦乙女は微笑んだ。
目指したのはカンナさんでs(ry
|